ちさのの日常的思考

ふだん思ったこと何でも書いてるブログ。真面目なことから馬鹿らしいことまでやってます。「今回の記事も相変わらずだな!」くらいの気持ちで読んでくれると嬉しいです。

東尋坊に行ってきます

久方ぶりのブログ執筆になります。
みなさまお久しぶりです。自他ともに認める変人、ちさのでございます。

只今、ちさのはずっと行きたかったとある場所に向かっております。
なのでそこにたどり着く前に、なぜそこに行きたかったのか、何を見たいのか、思いの丈を語っておきたいと思います!!!


東尋坊」という観光地

まずは、私が今向かっている、“ずっと行きたかった場所”とはどこなのかという話からしましょう。そこは、タイトルにも書いてありますとおり「東尋坊」です。

東尋坊という場所が世間ではどの程度の知名度を持っているのは、実際のところ私はあまりよくわかってはいないのですが、とりあえずは福井県にある崖です。特有の地形の崖で、非常に珍しいらしく、国の天然記念物にも指定されているんだとか。私も実物はまだ見てないので写真で見る限りのことしか言えませんが、まぁ、綺麗なところです。

「あ、この人、あんまりよく知らないんだな……」と察しがついたと思うので、細かいことはwikipediaを参照してください!


wikipedia東尋坊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B0%8B%E5%9D%8A


ここまでで「おぉ、すごく崖だな……」ということくらいは少なくともご理解頂けたかと思います。私も崖であること以上にこの崖について詳しいわけではないので、この記事を読む分にはそれくらいの理解があれば全然大丈夫です。

ただ、私がこの崖について崖であること以上にろくに知らないといえど、「崖だから崖に行きたい!!そこに崖があるから!!!(☆∀☆)」みたいな崖に対する無限大の執着がある訳ではありません(確かに刑事ドラマは好きだけど。無駄に崖にいる展開好きだけど。)。

私が東尋坊に行きたいと長年思いを募らせてきたのは、もっと別の側面ゆえに、です。


もうひとつの「東尋坊

私が東尋坊に行きたいと思っていた理由、崖である、その崖のつくりゆえに観光地になっている、そういったところとはまた別の側面「もう一つの東尋坊」。
前項の私の説明のふわっと感に不安を覚えて、wikipediaを参照なさった方はこの「もう一つの東尋坊」という言い回しも目にしたかと思います。東尋坊は「観光地」という側面を持つのと同時に、もう一つ持ち合わせてしまっている側面がある。陰の側面でありながら私が長いこと訪れたいと思い続けた要因となる側面。言ってしまえば、

自殺の名所

です。

ここでちょっと嫌な予感がしてしまった方もいると思うので早めに言っておきます。私は非常にポジティブな理由で東尋坊に向かっています。今この瞬間乗車中の高速バスも往復で帰りの便も予約しているし、Amazonで調子に乗って買ってしまったけど後悔は欠片もない商品がまだ届いていないし、何よりちさのはそこそこナルシストで鏡ずっと見てられる体質なうえ、将来は「ちさばあ」と呼ばれ近所の子どもに慕われるばあさんになりたいと思っているので、まだまだこの世を去る気はございません。


自殺の名所という自殺防止の最前線

ここからようやく、私が東尋坊を知ったきっかけの話になります。私が「自殺防止の最前線・東尋坊」を知ったのはTwitterで流れてきたこの動画です。


SAVING 10,000 - Winning a War on Suicide in Japan - 自殺者1万人を救う戦い - Japanese Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=oo0SHLxc2d0


当時の私が見たツイートは見失ってしまって発掘できなかったんですが、「この映画はアイルランド人作者の日本のためになってほしいという強い思いから劇場公開ではなく動画で無料公開している」というような説明がそのツイートに添えられていたように思う。この動画を見ていると、自殺を選んでしまう現実、自殺に向かう人たちを止められていないという現状の問題、そしてなんとかしたいという強い想いが伝わってきます。

この映画の、51分56秒ある全編のうち、本当に終盤にあたる45分48秒あたりから東尋坊の話があります。

ちさのはもともと人の内面やメンタリティに興味があって、特に悩んだり迷ったり悲しんだりするネガティブな感情をなんとか解決していく方向に関心がありました。そんな中でこの動画を見ていくにつれて、「わたしもなにかしたい」という想いが募ってゆきました。そして終盤、自殺防止の最前線として出てきた東尋坊に、私はあの日、心をうたれました。


「だれも死にたくないんですって」


動画の中にあるこの言葉で、あの日の私はぼろぼろ涙を流したのを覚えています。

この言葉は、東尋坊で自殺防止活動をしている茂幸雄さんの言葉です。茂幸雄さんは元警察官で、警察の仕事として東尋坊から自殺遺体の引き上げを行い、その現実を目の当たりにする中で、なぜ自殺を止められないのかと思い、この活動を始めたといいます。

自殺を考えて東尋坊を訪れる方は、崖の近くで日が暮れるまでずっとひとりで待っているそうです。そうして、誰かが話しかけてくれることをどこかで期待して、待っている。死にたい、死のうと思っていた、でも心のどこかで誰かに話かけてほしいと思っている、「どうしたの?」と優しい言葉をかけてほしいと思っている。そうして、誰かに止めてほしいと思っている。それはつまり、ホントは、死にたくない。そんな方たちに声をかけていく活動をしているといいます。

動画を見てない方にもこの想いが伝わるように情緒的に演出して書かせていただきましたが、こんな想いがこもった「だれも死にたくないんですって」という言葉とその口調の暖かさに涙が出たのです。


「現場が見たい……。」

これこそ私が東尋坊を訪れたい理由です。

茂幸雄さんたちの活動の現場を見たい。この地の雰囲気を肌で感じたい。この地にあるであろう暖かさが訪れる人の目にどう映るのか、その場所を歩いてみたい。

「自殺の名所だからそこを見に行く。」私の今やろうとしていることはそうであることには間違いない。けれど決して茶化しに行きたい訳ではないということを主張しておきたい。
もし仮に、今日その命を終わらせようとそこを訪れた人に出会い、それに気づいたなら、迷わず声をかけたい。もちろん好奇心のためでなくて、ひとに幸せに生きてほしいと思うひとりの人間として誠実に、なにかしたい、と思うから。


後日、また行ってきました報告の記事も書くつもりなので、興味のある方はそちらもよろしくお願いします。
この流れなのでしんみりした感じになっていますが、せっかく福井まで行くので観光としてもちゃんと楽しんでこようと思っています!


それではここまでお付き合いありがとうございました!!!

美容とファッションとコスメと恋愛についてだけ考えて生きられるなら生きてみたい人生だった(という健康と収入への不安の嘆き)

まず、私、ちさののリアルタイムな現状を報告します。


本日、エステサロンでボロ泣きしてきました。

(そして店員さんにご迷惑をかけてきました。)


別に誰かに何かされたとかそういう訳ではない。正直、普通に考えれば泣く理由などない。

どういう経緯でこうなったのか、とりあえず、順を追って説明したい。


***


学生時代の元カレA氏はかつて言いました、「なんかザラザラする」と。



……これだけの説明でこの言葉の意味と状況は察してほしい。


この言葉はちさのに「男性といえど生まれ持って毛が薄い人種がいる」という現実を植え付け、同時にそういう人種には女性のザラザラは受け入れがたいという現実を与えた。

「そいつは朝に駆除しても夜にはザラザラになるんだ。仕方ないんだ、許してくれ。」と言えないくらいには当時のちさのはうら若きオトメだった(*´∀`)


そして、この経験は年月を重ねる中で、私はこのザラザラを永久的に殲滅しなければならないという使命感に変わっていった……−−。


これが、私が、このエステサロンを昨年の初夏に初めて訪れることになった経緯(?)である。(そして店員さんの言葉によりちさのは体毛の濃さが通常の3倍という衝撃の事実を知ることになる。)


***


そんなこんなで始まった私のエステサロン通いであるが、徐々に店員さんたちとのコミュニケーションに、人見知りだとかそういう感じを超えて苦痛を感じていることに気がつくようになった。その正体に気がついたのは5回くらい通ったころだっただろうか?


「女性ならキレイを追い求めたいのが当然!」という思想。


これがその謎の苦痛の正体だった。

そりゃあ、ちさのだって「キレイになりたいかなりたくないか」の2択だったらキレイになりたい。

ただ、物事には優先順序というものがある。つねに目指して日々、追い求めるというほどに、キレイになることへの優先順位は高くない。それは「キレイになること」に興味がない、と言われてしまえばそうなのかもしれないが、それよりもやりたいことがあるのだと言えば立派に言える人生観なりうると思う。


「やっぱり、女性ってー、キレイになりたいものじゃないですかぁ〜」

「やっぱり、痩せたいとか思いません?そういうのもやってるんですよ〜」

「肌白いから、もっとキレイになれると思うんだけどな〜」


そういう言葉は、私の心のバランスを狂わす。「女性ならキレイになりたいもの」その言葉は、裏を返せば「キレイになりたいと思わないのなら女性ではない」。


これらの言葉は店員さんからすれば善意の勧誘だ。「恥ずかしくて言えないようなコンプレックスやキレイになりたいという願望を見つけて、それを叶えるための手段を提供する」、つまり「キレイになりたいという願望を叶えてあげたい!」という善意だ。

しかし、これには当然、それなりの金額が発生する。ちなみに既に私は金額は言わないが3年のローンを組んでいる。優先順位からして、キレイになるために必要な金銭対価は私には高すぎる。


「優先順位」。先程からこう言っているが私の優先順位1位は何なのか。それを語らなければ、話はこの先に進めない。

今の私の優先順位は、


1位:健康状態を悪化させず維持すること

2位:勤労して収入を得続けること


である。


「そんなの普通じゃない?」と思うかもしれない。たぶん普通の人は特別気に掛けることもなく当然のようにこなすことだろう。

ただ、これらは私にとって意識し続けなければ得られないものだ。ざっくり私の経歴を遡れば、もうじき25歳でありながら社会人歴1年ちょっと。雇用形態は派遣社員。それより前は心身ともに体調不良により概ねニートで、その前は同様の理由により大学院の退学だ。こんな経歴の私は、今なお、これでも、「いつまた体調を崩して働けなくなるかわからない」という不安を抱えている。


休日は体調の調整のために予定は空けておきたい、しかしキレイを追い求めなければならなずエステサロンに通わなければならない。それで体調を崩せば仕事に支障が出て、働けなくなりでもしたらローンが預金を圧迫する。

しかし、キレイになりたいと、キレイを追い求めなければならない。店員さんの言葉や振る舞い、お店の雰囲気、そのすべてからそんな思想を感じる。


「大丈夫だ!!心配するな!!バツグンに、とまではいかないが、ちさのん、お前はそこそこかわいいから心配するな!!!」


このエステサロンに通って毎度いつもゴリゴリ削り取られるメンタルポイントを回復させるべく私の中のポジティブちさのんがメガホンで叫ぶ。


今日もそうだった。ただ今日はちょっと、タイミングが悪かった。


「痩せたらきっとかわいくなると思うんだけどな〜♪」


その言葉が見事に、奇跡的に急所をついて、崩れかけた心のバランスを完全にぶっ壊してしまった。


「痩せたらかわいくなる」言い換えれば、「痩せてない今はかわいくない」。



学生時代の元カレB氏は当時、執拗に言いました、「痩せろ」と。

ちょうどその頃、今なお悩まされる体調不良が始まり、学校に行って一人暮らしの家事をするので精一杯な中に、彼はダイエット計画をぶち込んできました。「痩せなければならない」それは金銭や体調不安とはまた違ったトラウマ的思い出でもあります。


本当に、奇跡的に、彼女は、私のメンタルの急所を見事に突いてしまったのだと思う。


お店のお姉さん、突然泣いてすみませんでした。恨んだりとか全くしてないです、むしろ驚かせてすみませんでした。


たぶん、お店の人が想定するような「美容とファッションとコスメと恋愛のことだけ考えて生きてるイマドキな25歳女子」だったらこんなことにはならなかったんだろうなぁ……(*´∀`)

暇だったので「トリセツ」をもとに私のトリセツを考えてみた

暇だったので何かと話題の西野カナの「トリセツ」の歌詞を、私、ちさのバージョンに書き換えてみました。

原曲の歌詞は
トリセツ - 西野カナ - 歌詞 : 歌ネット
このあたりでそうぞ。

あくまで暇つぶしです。
歌詞にするには語呂が最高に悪いです。ちさのは基本的には話が長い人なので仕方のない現象なのです。

ちなみにちさの、独身だし彼氏いません。相手は妄想です。

妄想です!!!!!



***

この度はこんな私を選んでくれてどうもありがとう。
ご使用の前にこの取扱説明書をよく読んで、ずっと正しく優しく扱ってね。
一点物につき返品……、

返品は最悪可能と言えば可能です。交換の方は承っておりませんのでご了承ください。ただし返品に関しましても料金が発生する場合がありますので、この取扱説明書に記載の内容をご理解のうえ、了承していただいた上でのご購入をお勧めしております。


急に不機嫌になることがあります。まぁあります。
理由を聞いても答えないことも、まぁあります。
その場合に言うことは大概、「なんでもない、ほっといて」だと思うので、その言葉に従って放っておいてあげてください。
「放っておいてくれ」と言っても放っておいてくれないと、真に放っておいてほしい時の選択肢が家出しかなくなるので、放っておいてくれた方がありがたいのです。
放っておいてほしいと申し出て放っておいてくれる日々を過ごしていけば、本当は放っておいてほしくないときはきっとそう申し出るようになるでしょう。
だから、そのときは受け止める器と、そのときに向けての心構えは、心の片隅にでも持っておいてくれると助かります。


定期的に褒めると長持ちすることもあるかもしれません。
爪がキレイ……、とか、暇だったから爪を手入れした日に限って言われたりすると「普段は爪が汚いのがバレていたのか!?」と変に勘ぐって逆に落ち込むこともあります。気を付けましょう。
しかし、小さな変化にも気づいてくれるほど、私に関心を持っていてくれるのはありがたいです、家族として。
太ったとか、いうのは気付かなくてもいいのですが、私の場合、太るのは忙しくて食生活が乱れているか、ストレスでもりもり食べているかなので、「最近、忙しすぎたりしない?大丈夫?」という言葉を添えて気付いてくれるのならば、気付かないよりポイント高いです、私的には。


もしも少し古くなってきて目移りする時は、ふたりが初めて出逢ったあの日を……って、どんなドラマティックな出会いをしているかはわかりませんが、初めての出逢いなんて大概は何気なく、そんなに感慨を与えるようなものではないと思っています。
私が、年老いて、若い子に目移りするのであれば、「お前も年老いてんだろ鏡見ろよ」と言ってやりたい訳ですが、しかし実際のところ、若さには勝てないものがあります。仮にそれに勝てるものがあるとしたら、重ねた日々による愛着と理解度だと思います。それに気づいて私のところに気持ちが戻ってきてくれるくらいには、互いに理解し尊重しあう日々を送っていけたらと思います。


これからもどうぞよろしくね。
こんな私だけど、苦笑いとか呆れ笑いとかそういうのでいいから、笑って許してね。
ずっと大切にしてね。
永久保証、というのは寿命があるのでできませんが、半永久的に保証する覚悟は持ち合わせていると思います。


意外と一輪の花にもキュンと……、キュンとするかどうかはわかりません。ただ、例えば、あなたが買ってきた花を花瓶に生けて、その水を毎日を取り換えることも面倒であるというよりむしろ楽しく、「たまには花を飾るのもいいね」なんて言いながら、その花が枯れるまで楽しんで過ごせるような、心と時間に余裕のある生活が送りたいなとは思います。

なんでもない日のちょっとしたプレゼントが効果的です。例えば、テレビとかを見ながら「あのなべつかみカッコイイなぁ」とか言ってたりしたら数日後に買ってきてくれるみたいな、私をよく見ていてくれた上でのプレゼントは効果的かもしれません。しかし、「欲しくはないけどイカしてる」と思ったものにもカッコイイと言う人なのでその点は気を付けましょう。

センスはだいたい何事にも大事です。

短くても下手でも手紙……は、内容によるなぁ。ちさのは話が長いうえに論述や議論が好きな人なので手紙という内容が明確に残る状態で、文章を与えてしまったら大変なことになるかもしれません。


もしも涙に濡れてしまったら優しく拭き取って……、くれてもいいですが、大概の場合は涙くらい自分で拭きます。
ただ、悲しいときは、ギュッと強く抱きしめてほしいこともあるかもしれません。
あなたにしか直せない、かどうかというのは事例によります。例えば、涙の原因が嫁姑関係にあった場合、立場上の問題であなたにしか解決できないこともあると思います。その他の事例、家の外での出来事で頼る相手があなたしかいないというのは依存的でいくぶんか不健康にも感じますが、あなたが「頼れる人間」であることは間違いないのかもしれません。


これからもどうぞよろしくね。
こんな私だけど、苦笑いで呆れながらも頷いてくれると助かります。
ずっと大切にしてね。
半永久的にはたぶん保証している私なので。


たまには旅行にも行きたいとは思っています。
記念日にはオシャレなディナー、とまではいかなくていいですが、記念日というのは一度でも蔑ろにしてしまうと、廃れていつしか忘れ去ってしまうものだと思います。だから、忙しくてもささやかでも、記念日には何か特別なことをしていけたらいいと思います。
「記念日を祝うのなんて柄じゃない」なんて、言ってもいいですが、それでもはにかんで、ともに祝って頂きたいです。

広い心と深い愛で全部受け止め……る、というのは、「全部」というのは人間である限りは難しいかと思います。なのでできる限り多くのことを、私があなたを受け止めきれるくらいのことは、受け止めてくれると嬉しいかなぁと思っています。


これからもどうぞよろしくね。
ご覧のとおりこんな私だけど、笑って許してほしいかなと思っています。
返品は可能ですが、購入したからにはずっと大切にして頂きたいです。
一応、死ぬまでの半永久的期間は保証されていると思います。


***

結論
・口うるさい
・話が長い
・取扱説明書というよりは購入規約なんじゃなかろうか……?




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投稿後に1フレーズ抜けていたことに気付いたので加筆しました。

数字の秘孔を突く女~ちょっとおかしいちさの式の足し算引き算~

突然ですが、ちさのの足し算引き算の計算法はおかしい。数年前まで誰にも言えなかったくらいおかしい。本当におかしい。しかしあの日、編み出してしまったその謎の計算法を未だに使っている。やめられなかった。
どうおかしいのかという具体的内容は後でふんだんに説明するが、足し算引き算の基礎、掛け算でいう九九にあたる部分がおかしい。どうやら普通の人は足し算で1+1から9+9までの99通り、引き算で同様に99通りを暗記して活用しているらしい(これも数年前に知った)。ちさのはこれを毎度謎の方法で導き出している。

そして1年ほど前、ある人にこの謎の足し算引き算の計算法を話した結果、リアクションがこれだった。

「それはもう、数字の秘孔を突いている」

そうか、私は長年、数字の秘孔を突き続けてきたのか……。そのとき初めて、あの謎の計算法に名前がついた。「数字の秘孔を突く計算法」。そして私は「数字の秘孔を突く女」。なかなかかっこいいじゃないか。


数字の秘孔の突き方(この計算法の使い方)

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まず、これが数字の秘孔です。突然これが秘孔ですと言われても意味がわからないと思うが、これが秘孔です、覚えてください。秘孔は1が1個、2が2個……、というようにその数字の数だけ持っています。この秘孔の場所は大切です、覚えてください。

この時点で察しの良い方はお気づきかと思います。

そう、秘孔を数える!!!!!!!!!


例えば、6+5の場合、

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まず、一つ目の数字「6」を頭の中で言う。言わなくてもいい、「6」と思い浮かべてください。


そして次に!!
「5」の秘孔を突きながら数を数える!!!!
「7、8、9、10、11」と5回!!!!


A. 6+5=11

……以上っっ!!!!!

逆に引き算、6-5の場合、「5、4、3、2、1」とカウントダウンします。だいたい一緒です。ちなみに秘孔が多いとめんどくさいので「5+6」でも5の方の秘孔を突くことをお勧めします。

それから、9には秘孔がない(笑)。秘孔がないというか、当初は秘孔の場所を決めようと思ったものの、8の秘孔を見ればわかるようにもうスペースが限界だった。そのため9が出てきたら「10の1つ小さいやつ」として扱い、「+9」は「+10-1」、「-9」は「-10+1」として計算します。


技の完成までの経緯

私がこの「数字の秘孔を突く計算法」を編み出したのは小学校1年のときだった。そう、小学校で足し算引き算を習ったときのこと。つまり、ちさのは普通の人が普通の計算法を会得するときに、それをせずに独自の計算法を編み出してしまった。
なんでそんなことをしたのかは、今となってはもううろ覚えですが、たぶん「暗記する」という発想がなかった。なぜ暗記しようという考えに至らなかったのかはもはやわからない。もう当時から、ちさのという変人の片鱗があったとしか言えない。そういう経緯(?)なのです。


メリットとデメリット

この「秘孔を突く計算法」には1つのメリットと無数のデメリットがある。

メリット①:暗記しなくていい。
もう、メリットはこれしかない。ちさのがこの秘儀(計算法)を導いてしまった原因であるこれしかない。99×2=198通りの足し算引き算の全パターンを覚える必要がない。必要なのは8つの秘孔だけだ。素晴らしい(素晴らしくない)。


これが唯一にして最大のメリット。そして以下が様々なデメリットたちである。


デメリット①:紙が汚くなる。
これは私が学生時代の間ずっと苦しんだデメリットだ。紙が汚くなる。秘孔を突くときだいたいは右手に持っている鉛筆またはシャーペンの先だ。それはもう式がポツポツというペン先の跡だらけになる。歴代の担任や数学担当の先生の中にはもしかしたら提出されるテストやプリントの数字回りが汚いことに気付いていた先生もいるかもしれない。


デメリット②:人前でダサい。
これは、あまりないシチュエーションだが、なかなか困る。簡単な足し算引き算の計算であれ、目の前で高速で数字をペン先で叩き始めることになる。「高速で」と言ったが、ちさのはこの技を熟練しすぎて秘孔を突くのはそれはもう速い。突然、目の前の女が物凄い速さで数字を叩き出したらそれは引くだろう、さすがに。


デメリット③:紙がないと困る。
これは、非常に致命的に困る。なにせ、目の前に数字の姿が見えなければ、その秘孔さえも見えない。どこを叩いて数えればいいのかわからない。このデメリットには社会人になってからよく出くわすようになった。学生のうちは計算を求められる時なんてだいたい目の前に紙があった。しかし社会人になると、会話の中でポッと数字が出てきて会話の中で答えを求められることがほとんどだ。


最後に、

ここまで、この「ちさの式・秘孔を突く計算法」の説明をしてきたが、今後の展望の話をしようと思う。

今後、ちさのはこの計算法から脱却するための治療をしたい。

この計算法は個性と言えるかもしれない。しかしさしあたって不便だ。ちょっとしたコンプレックスでさえある。だから、治療(?)によって脱却を図ろうと思っている。現状、そろばんを習うのが治療として有用なのではないかという仮説を立てている。ちさの、20代半ばにしてそろばんを習うという挑戦を計画している。まだ計画でしかないけれどやってみたい。



ここまでで本記事は終わりになるのだけれども、オチがなくなってしまったので、「数字の秘孔を突く女」という称号を得たあの日の飲み会での会話を最後にお別れとしたい(冒頭のあれは飲み会中だった)。

あのあと、そこにいた皆様はこの計算法にとても興味を示してくださった。「おぉ、なるほど!!」「あなた、天才だね…!」とまで言って頂いた。割り箸の袋で実演までした(そこに紙がそれしかなかった)。そしてそのうちの1人が興奮気味に目を輝かせた。

「じゃあさ!!掛け算割り算はどうするの!?」

そして、ちさのは当然のように答えた。

「あ、それは、覚えました。」


「「「「それは覚えるのかよ!!!!!」」」」


きれいに総ツッコミを頂きました。ありがとうございます。

佐藤健太郎先生の「世界史を変えた薬」を読み終えたので出会いと感想を述べてみる

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先日、佐藤健太郎先生の「世界史を変えた薬」を読み終えました。写真の本です。なぜ先生の本が謎の生物(とはいえハムスターとスーモ)に取り囲まれているのかとかいうことは置いておいてほしい。我が家のシンボルたちです。

冒頭から「先生」としきりに呼んでいる、この本の著者の佐藤健太郎先生。会ったこともないし直接の関係も特にない。しかし一方的に勝手に先生と呼ばせて頂いている。Twitterだってフォローしている。何を隠そう、今回、私がこの本を知り、購入して読むに至ったのは先生のアカウントをフォローしていたからである。ではなぜ私が先生を知り、Twitterをフォローするに至ったのかという話をこの際だからしようと思う。

……ちなみにこの記事は前半がこの話で後半から私の今回の読書感想になります。前半はすっ飛ばしても問題ありません。

 

先生との出会い

さて、私と先生の出会い(出会っていない)は10年ほど前までさかのぼる。ちさのは中学生、ちさの兄は高校生だったころのような気がする。なんだったかよく覚えていないが、ちさの兄妹はこんなwebページに出会ってしまった。

 

有機化学美術館/ナノ世界の小人たち
http://www.org-chem.org/yuuki/nanoputian/nanoputian.html

 

ちさの兄妹は爆笑だった。

中学生の私にはよくわからないけれども何かもう爆笑だった。化学の話という感覚で眺めていたwebサイトに突然マスコットキャラクターみたいなものが現れたから爆笑だったのかもしれない。本当によく覚えていないが私の中に「NanoPutian」、特に「NanoKid」という存在だけは強烈に印象づいている。画像をDLしてケータイの待ち受け画像にしていた時代さえあった(それを見た友人たちはもちろん引いていた)。

 

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(NanoKid。引用元:有機化学美術館/ナノ世界の小人たち http://www.org-chem.org/yuuki/nanoputian/nanoputian.html )

 

このwebサイトを見て爆笑したちさのであるが、当時ちさのは中学生である。ベンゼンは知らないし構造式という概念さえない。炭素鎖をジグザグで書いて水素は省略するなんてもちろん知らない。しかし隣にいた高校生のちさの兄は知っているのである。そして興奮気味に何かを説明した。正直よくわからなかったがその説明の最後に兄は確かこう言った。「高校に行ったらこれ勉強するから!」と。兄は昔からこうだった。私がまだ知らない学校で学んだ面白いこと、特に理科や数学に関してのことを面白そうに私に語ってみせる。このときもそうだった。

そして数年後、高校に進学して化学の授業で私はベンゼンと出会うことになる。

 

「ナノキッドにはまってたやつだぁぁぁぁああああ!!!!!」

 

これが、初めて授業にベンゼンが現れたときの心の中のテンションだった(ような気がする)。さすがに授業中に叫んではいない。この後、修学旅行の班名を「ナノキッド」にして担任の先生の頭上に「?」が浮かんだというエピソードもある。このころのケータイの待ち受けは確か「Nanoputian Dimer」だった、二匹がかわいい。

 

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(Nanoputian Dimer。引用元:有機化学美術館/ナノ世界の小人たち http://www.org-chem.org/yuuki/nanoputian/nanoputian.html )

 

ちなみにこの「NanoPutian」で盛り上がったちさの兄妹は、立派な化学系兄妹(!?)へと進化を遂げる。ちさの兄は某素数大好きで有名、理系大学の化学系D(現役で学生)だし、兄と比べるとハンパなく見劣りするが、ちさのはとある私大の化学科卒である。
私が化学専攻になった原因の半分以上はきっと兄にある。大学進学後に高校生の私に大学の化学を嬉々として語った兄にある。それでも私が化学に興味を持ったエピソードの1つに「NanoPutian」を見てパソコンの前で兄と爆笑したあの日の思い出は確かにあり、私が俗に言う「リケジョ」になったきっかけの一端はきっと佐藤健太郎先生にあるのだと思う。だから何らかのきっかけで先生のTwitterを見かけたときに「あ、あの有機化学美術館の中の人だ!!」と思ってフォローを始め、そして今回の「世界史を変えた薬」の購入に繋がったのである。

 

真面目に感想

冒頭に書いたとおり、後半は真面目に読書感想の話をしよう。

なにより、読み物として面白い。化学という枠組みの外側の内容が面白い。こんな言い方をしてもピンとこないとは思うが、真っ先に思った言葉がこれだった。

タイトルが「世界史を変えた薬」。世の中にはどんな薬があってその薬はどんな症状に効いて体内ではどう働いて……、みたいな話だと思うのではないかと思う。ちさのはそう思っていた。主人公は薬な、知識を与えてくれる教科書みたいな本だと思っていた。

それでも全然よかったけれど、そうではなかった。というか、それだけには留まらなかった。もちろん登場する薬についてどんな薬でどう働くのかと言う話もある、ちゃんとある。それ以上に、その薬を取り巻く人々、その薬の研究者たちや患者たち、そのときの世間の人々(つまり世の中の状況)など、この本の主人公は「薬」ではなく「薬を取り巻く人々」だと思う。それぞれの薬に関するエピソードが面白い。こういう意味で、教科書というよりも物語としてという意味で、「読み物として面白い」だ。

各薬のエピソードもとても面白いが、さらに印象的なのが、ところどころに散りばめられた「化学の枠組みを超えた投げかけ」だ。これがまたたまらなかった。なんていうかもう、ため息がでる。各章末にその章で扱った薬やそのエピソードから、化学の範囲の外側について考えさせられる文章があったりする。私の拙い言葉では全然伝えれれないので、一文だけ引用させて頂こう。

「第5章 麻酔薬 痛みとの果てしなき闘い」の最後の段落中(p.87)の一文。麻酔というものは身近に用いられていながら、その原理がわかっていないという話のあとにある文章。

 

「あるいは麻酔の研究こそが、人の心や意識という、最大の謎に対する鍵を提供してくれることもありえよう。」

 

この化学という枠組みを超えた広大さが伝わるだろうか…!?伝わらなくてもいい。一端でも何か伝わればいい。私はため息が出た。私は出たぞ、ため息が。

いやぁ、漫画やアニメとかの理系キャラのイメージから、「そんなのわかりきってる、当然だ」みたいなことをスカした顔で言うのが理系だと思われているような気がするが、そうではないと叫びたい。世の中わからないものだらけなのが当然でだとわかったうえで、とても広大なわからないものに出会ったときこの世界の広さと神秘さ、そして世界から見た人間の小ささを感じ、その神秘さに心満たされながら喜んでそのわからないものに飛び込んでいきたくなるのが真の理系だと叫びたい。話の本筋からズレてはいるが叫びたい。発言が宗教ちっくなのを承知のうえで叫びたい。キモイと言われても構わない。なにせ実際キモイ。

 

……えっと、ゴホン。

この本の投げかけは、そんな理系の興奮を掻き立てるものがある。「知識が増える」ではなく、いろんな方面から「心が動く」ものがある。本記事の前半も踏まえて言うなら、

 

「やはり先生は、私を化学の世界に惹きつける御方なのだなぁ(*´ω`*)」

 

といったところだろうか。

これ以上この記事を続けたら、もしも佐藤健太郎先生ご本人の目に触れることがあったときにドン引きされそうなので、この辺にしておこう。見ず知らずの女にラブコール(?)されたら普通引くだろう。ましてちさのだし。もし先生がこれをご覧になっていたとしたら、これは読者からの敬愛だと解釈してもらえると信じていよう。

さて、この記事をご覧になった方の中に、もしここの本に多少でも興味をもった方がいたとしたら、読んでみることをお勧めしたい。きっとちさのはこの本の魅力の一割も伝えられていないだろうから、その一割にさえ興味をもって頂けているなら、きっとこの本を楽しめる。そう思います。

 

それでは最後までお付き合い頂きありがとうございました!!

 

何を引き換えに金銭を得ているのだろうか?

私は何をお金に代えているのだろう?

ときどきふと疑問に思う。
何を引き換えに給料を得ているのだろうかと。時間だろうか?仕事の作業だろうか?それとも仕事によるストレスなのだろうか?


昔、読んだ小説にこんな世界があった。機械が発達して人がやるべき仕事などほとんどない。しかし仕事がないと給料が得られなくて民間の人は生活ができない。だから「仕事」の代わりに「適当なストレス」を与えられる。無意味に数時間待たされるとか、本当に適当なストレスだ。それをこなすと「仕事」をしたということで給料が与えられる。

この世界では「仕事」とは「ストレス」だ。間違いなく、ストレスと引き換えに金銭を得ている。この小説の作者にはこの現実世界もストレスと引き換えに金銭を得ているように見えていたのだろうか?


あと、大学時代の友人が言っていた。「仕事」とは「嫌なこと」なのだと。仕事が嫌なことではなかったら、その仕事をやりたい人で溢れかえってしまう。そうなっていないのは、「仕事」が「嫌なこと」だからなのだと。この友人にもきっと、仕事とは嫌なことをして受けるストレスと引き換えに金銭を得るものに見えていたのではないだろうか。



「私、嫌なんだよね。時間を切り売りしてるみたいな仕事って!」
こんなことばかり考えていると、単発のバイトで知り合った女の子が言ったこの言葉を思い出す。はつらつとしていた彼女が思う、嫌ではない仕事とはきっと、給料の代償は「時間」でもなければ「ストレス」でもなかったのだろうと思う。

彼女がなにを引き換えに金銭を得る仕事がしたかったのか確かなことはわからない。けれども「ただ時間をやり過ごすのではない充実した仕事」を望んでいたような気がする。


もの思いにふけりながら、色んなエピソードを思い出す中で、私はやはり自分の考えは譲れそうにないことに気づいている。譲れないというよりも、そう捉えていなければ嫌で仕事をするこの社会で生きていけそうにないというのが正しい。


仕事は「誰かの役に立つこと」と引き換えに金銭を得ている。


そう思っていたい。自分ひとりの仕事ではたいして誰の役にも立たないのかもしれない。でも会社や企業を経由して誰かの役にたっている。その役に立ったことに対して誰かが支払ったお金がいろいろ経由して私の手元に届いているのだと。綺麗事だと言われるかもしれないが、そう思っていたい。

国語(現代文)の成績に伸び悩むならカウンセリングが必要かもしれない

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この土日はセンター試験ですね。土曜の夕方ごろに「今年のセンター試験の国語の出題がやばいww」みたいな噂を耳にして、今日気になって新聞に飛びついたところでございます。結果、評論の語尾が「ですます調」だったので読むのを諦めました。大学入って「である調」の文章ばっかり読んできた私には抵抗がすごかった。高校時代の私はあの文章を抵抗なく読めていたのだろうか?正直あのころと今ではいろいろな変化がありすぎて想像してみることも難しかった。

当時と今の私の違いという点から、本記事のタイトル「国語(現代文)の成績に伸び悩むならカウンセリングが必要かもしれない」につながる。実際のところ、私自身も現代文の成績に伸び悩む高校生だった。というか、成績が全体的に伸び悩む受験生だった。「勉強の成果は時間が経ってから出てくる!だから心配するな!!」という先生の言葉を片耳にとりあえず勉強はしていたものの、全く伸びなかった。正直そんな気はしていた。

私の全体的な成績の伸び悩みの原因は私にしかあてはならないものかもしれないと感じているが、これを国語の現代文にのみ限定した要因ならば、私意外にもあてはまる人は少なからずいるのではないかと思っている。これは私の感性で「あ、この人、カウンセリング受けた方がいいな」と思う人をしばし見かけるからで、このカウンセリングを受けた方がいいと思う理由が現代文の成績が伸び悩む理由につながると考えているからである。

 

……前置きが長くなるのは私の改善すべき悪い癖だが、もう終わるのでちょっと勘弁して頂きたい。私が「この人、カウンセリングを受けたほうがいいな」と思ったり、現代文の成績の伸び悩みにつながると考えていることは、

「伝えたいことが多すぎる」

これです。伝えたいことが多すぎるんです。誰かに話したい、伝えたい、わかってほしい、そう思っているけれど伝えきていない気持ちや考え方がその人の中にいっぱいあるんです。

伝えたいことがいっぱいある。そんな状態ならば、誰かの意見や考え方を少しでも耳にしたとき、「自分はこう思う!」「自分はずっとこんな風に考えてた!」そんな思いが自分の中で湧きあがり、それを話したい、伝えたいと思うばかりで、他人の話を客観的に聞くことができなくなってしまうものだと思うのです。何より私がそうでした。

これは現代文の読解においても同様のことが言えると思う。評論および小説の内容を客観的に読んで、その中に書いてあることのみから理解する、これが現代文の試験問題の読み方、解き方である。そんな中で、伝えたいことが多すぎると、評論や小説を読み進むにつれて「わかる!!」とか「自分はこう思う!!」とかそんな思いばかりが湧きあがってしまい、客観的に自分と違う作者の考えや登場人物の感情として読み解いていくことが困難なのではないだろうか。

評論や小説問題を解くにあたり、「あ、君はそういう考え方をする、そういう人なのね」という一歩退いたドライな視点が大事なのではないかと思う。私がこの視点を身に着けたのは大学進学後で、それ以降センター試験国語なんて解いていないから、何も実証できていないが、高校時代の私より、今の私の方が評論や小説なら解ける気がする(古文漢文はもう文法を忘れ去っているので当時の方が解けたと思うが)。

では、そんな客観的な視点を身に着けるにはどうしたらいいか。何より、自分の中にあふれる伝えたい事を伝えて、外に出し切ってしまうのが良いと思う。日常の中でそんな機会が得られればいいのかもしれないが、現状で伝えたい事が溜まりに溜まっているのならば、そんな機会が日常の中では得難いという何よりの証拠ではないかと思う。そして、想像するにそんな溜まりに溜まった考えや気持ちは、聞く方もなかなかに骨が折れるだろう。だからカウンセリングを受けることで、溜まった思いを伝える機会をきちんと設け、カウンセラーという話を聴くことのプロに託してみる、というのが良い手だと私は思っている。

ちなみに興味はないとは思うが、私がこうして今ブログを書いているのも、この話を伝えたくてしょうがなかったからである。今の私は評論や小説といった国語の問題を解くことはないが、他人の話を聞いたりする機会はある。そのときに「自分が話したい」という思いが募り、聞けなくなるのは個人的にただ嫌なので、こういう場で語ることにしています。

伝えたい事が本当に多すぎるときは話が支離滅裂になりやすいので、ある程度落ち着いてきて、それでも伝えたいことがたくさんあるならブログもおすすめかもしれません。しかし、まず個人的にはカウンセリングをおすすめしたいです。漠然と「なんかカウンセリング良いらしい!」という話ではなく、私の大学時代に数年の間はカウンセリングを受けていたという経験から話しています、ご安心(?)を。