ちさのの日常的思考

ふだん思ったこと何でも書いてるブログ。真面目なことから馬鹿らしいことまでやってます。「今回の記事も相変わらずだな!」くらいの気持ちで読んでくれると嬉しいです。

何を引き換えに金銭を得ているのだろうか?

私は何をお金に代えているのだろう?

ときどきふと疑問に思う。
何を引き換えに給料を得ているのだろうかと。時間だろうか?仕事の作業だろうか?それとも仕事によるストレスなのだろうか?


昔、読んだ小説にこんな世界があった。機械が発達して人がやるべき仕事などほとんどない。しかし仕事がないと給料が得られなくて民間の人は生活ができない。だから「仕事」の代わりに「適当なストレス」を与えられる。無意味に数時間待たされるとか、本当に適当なストレスだ。それをこなすと「仕事」をしたということで給料が与えられる。

この世界では「仕事」とは「ストレス」だ。間違いなく、ストレスと引き換えに金銭を得ている。この小説の作者にはこの現実世界もストレスと引き換えに金銭を得ているように見えていたのだろうか?


あと、大学時代の友人が言っていた。「仕事」とは「嫌なこと」なのだと。仕事が嫌なことではなかったら、その仕事をやりたい人で溢れかえってしまう。そうなっていないのは、「仕事」が「嫌なこと」だからなのだと。この友人にもきっと、仕事とは嫌なことをして受けるストレスと引き換えに金銭を得るものに見えていたのではないだろうか。



「私、嫌なんだよね。時間を切り売りしてるみたいな仕事って!」
こんなことばかり考えていると、単発のバイトで知り合った女の子が言ったこの言葉を思い出す。はつらつとしていた彼女が思う、嫌ではない仕事とはきっと、給料の代償は「時間」でもなければ「ストレス」でもなかったのだろうと思う。

彼女がなにを引き換えに金銭を得る仕事がしたかったのか確かなことはわからない。けれども「ただ時間をやり過ごすのではない充実した仕事」を望んでいたような気がする。


もの思いにふけりながら、色んなエピソードを思い出す中で、私はやはり自分の考えは譲れそうにないことに気づいている。譲れないというよりも、そう捉えていなければ嫌で仕事をするこの社会で生きていけそうにないというのが正しい。


仕事は「誰かの役に立つこと」と引き換えに金銭を得ている。


そう思っていたい。自分ひとりの仕事ではたいして誰の役にも立たないのかもしれない。でも会社や企業を経由して誰かの役にたっている。その役に立ったことに対して誰かが支払ったお金がいろいろ経由して私の手元に届いているのだと。綺麗事だと言われるかもしれないが、そう思っていたい。