ちさのの日常的思考

ふだん思ったこと何でも書いてるブログ。真面目なことから馬鹿らしいことまでやってます。「今回の記事も相変わらずだな!」くらいの気持ちで読んでくれると嬉しいです。

「いじめ」という言葉が嫌いな件について。

これはここ数年、「いじめ」という言葉に出会うたびに思っていることです。
「いじめ」という言葉を用いていることが、気に食わないな、って。


* * *


私の思うことを説明する前に、以前この話をある友人にしたときの話をしておきます。
きっとこの冒頭やタイトルから、この友人と同じように思う人も多いと思うので。

あの日、一体どういう経緯だったかは全く覚えていませんが、いじめに関する話をしていました。
そしてそんな中で、私は、

「私、いじめって言葉、好きじゃないんだよねー」

とぼやきました。
それに対して、その友人はこう返しました。

「それは『いじめ』っていう軽い感じの言葉を無くして、『迫害』とか重い感じの言葉にすればいいって考え方ってこと?」

そのとき、私の中に言いたいことはいろいろあった。
しかし、ネット上とかで、そういうフレーズを見かけたことがあったので、この友人に言いたいことをぶつけはしませんでしたが。
友人も、そういう考え方があるのを知ったうえで、私もその1人なのか?と確認したかったのでしょうし。


しかし、今日はこんな場なので、私がこのとき思ったいろいろというのも語っておこうと思います。

まず、思ったことは、「いじめ」って言葉は別に軽い言葉なんかじゃないということ。
これは、あくまでも私の体感ですが、いじめを理由に自殺した事例は何度もニュースで取り上げられていて、「いじめはひどいもの」というイメージは広がっていると思います。
ほとんど同じ音の言葉である「いじり」とは全く違った重みが「いじめ」という言葉にはあると思います。
これは、私以外の人でも、まぁそうだな…、と思ってくれるじゃないかな、と感じています。


次に思ったのは、仮に「いじめ」が軽い言葉だとして、適当な重い言葉に言い換えたところで、その言葉のニュアンスが軽くなるだけで意味がないということ。

「言葉の使用頻度が増えると、その言葉のニュアンスが軽くなる。」

これは「いじめ」という単語だけではなく、言えることだと思っています。
当初は重い意味合いの言葉でも、使用頻度が上がって広く使われるようになると、それと同じ方向性で軽い事例をさすときにも使われるようになる。
…そのきっかけは、冗談半分で使ったのが広まっていくことにあると個人的には思っていますが。

抽象的な話でよくわからないと思うので例を挙げます。
あんまり良い例ではないですが「死ぬ」という言葉がその代表格だと思います。
本来の意味合いは、ご存じのとおり、死去すること、お亡くなりになること。
そして軽いニュアンスの用いられ方というのが、例えば学生が明日までに課題を3つ4つ仕上げなければならないとき、

「やばい!終わらない!!死ぬwww」

みたいな。
こんな感じで重い意味合いの言葉も、当然のように軽く用いられる。
「いじめ」という単語も同様に、いわゆるいじめではなく、親しい友人同士の相手の本心を把握し合ったうえでのいじりあいで、

「ひどいwwいじめだわーww」

みたいな使い方をすることもあると思います。
これをいじめというと言葉が軽い意味合いだという理由だと主張するとしたら、
仮に「いじめ」を「迫害」と表現するようにしたとしても、この例文の「いじめ」が「迫害」にいずれ置き換わるだけの話だと思います。


* * *


さて、長々と私の考えを間違って認識されかけた日の話をしましたが、ここからはその私の考えの話に入ろうと思います。
そもそも本論はこれで、

「いじめ」という言葉に出会うたびに、「いじめ」という言葉を用いていることが気に食わないな、と思う、

という話です。

何が気に食わないかというと、「いじめ」って言葉だけで伝わったり、わかった気になるな、ってことです。

「いじめ」って聞いたら、いわゆるいじめの経験もない人たちでさえ、
つらかったよねー、大変だったよねー、よく我慢したよねーとかなんだかわかった気になって同情するでしょう。

だけども、いじめってそんな単純じゃないよ?
一言で「いじめ」と言ってもいろいろある。

学校に限定して言っても、
いじめの範囲が学年全体だったのか、クラス内だったのか、親しい友人グループ内だったのかとか、
その状況下で味方してくれる人がどれだけの人数、どれだけ親身になってくれて存在したのかとか、
悪口を言われたのか、暴力を振るわれたのか、ものを盗られたのか、という実際の被害とか、
そのいわゆるいじめ状態が、何をきっかけに始まって、どれほど続いたのかとか、
それら全体から、どんなつらさを感じて、どれほど苦痛だったのかとか、
「いじめ」なんて3文字なんかじゃ絶対に収まらない実態と苦痛が、いわゆる「いじめ」には存在する。

それぞれの、「いじめ」の実態というのは、各事例のエピソードを語る以外に伝える方法はないと思う。
『ある日、●●をきっかけに、無視されるようになり始めて、だんだん○○な状況になってきて…
それから、どうなってこうなって…、
そしてある日、***されたのが一番つらくて…』
とか、そんな風に、いろんなことを全て語らないと実態なんてつかめやしない。

だから、気に食わないんです、「いじめ」という言葉を用いることが。
正確には、「いじめ」という言葉だけで説明を完結させて、それだけで全てを伝えた気になる使用者と、
それだけ聞いたり読んだりして、すべてを理解した気になる受け手が。
正直、「いじめ」という言葉だけで全てを説明した気になる人ほど、いじめというものを知りはしないのではないかと思ってしまう自分がいます。


* * *


最後にこれは弁解ですが、決して「いじめなんて言葉は使うな!」って話ではありません。
実際、私もいじめという言葉は使います。

よく私がいじめという言葉を使う事例としては、自分の昔の話をするときです。
中学時代のある出来事の話をするとき、私はあれを「いじめ」と呼びます。

しかし、私があれをいじめと呼び始めたのは中学を卒業して数年してからで、その状況下にあったときはいじめなんて呼んでいませんでした。
全くいじめではな、と思っていた訳ではないんです。
ただ、実際に体験したとき、私がいじめという言葉に対して抱いていたニュアンスの真ん中ではなかったんです。

当時のいじめという言葉に対する私のイメージとして、
「何にも悪くないのに、突然に不当に責められて、みんなから攻撃される。」
みたいなものがありました。
しかし、実際に経験した境遇というのはそうではなくて、
いわゆるいじめの標的に自分が選ばれたのには、ある意味で妥当な理由(簡単にいうとコミュニケーション能力が低かったということ)があったし、
不当に責められる、というより、なんとなく嫌いの延長線上にある、という感じでした。

だから、今でもこれは、いじめという範囲に入ったとしてもその端の方だろうと思っています。
しかし、このとき体験した具体的な出来事は伝えたくなくても、たた「このときつらい出来事があった」ということだけを伝えたいときに、「いじめ」という言葉は意外と便利です。
そのため、この中学時代のつらい出来事を前提において今の自分の話をしたいときに、しばし使います。


つまり、総じて言いたいのは、

* いじめ、という言葉では伝えきれない実態がいわゆるいじめにはあるということ。

* その詳細を伝えたくないときには便利な言葉だが、本当にその内容を伝えたいのなら、具体的なエピソードを添える必要があるということ。

この2点です。


それでは、ここまで読んで頂きありがとうございました。